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僕のNSP 日記~其の81

僕たちは「Now」で何度か演奏して腕を磨いた。中学生が喫茶店で歌う事は今なら問題になるかもしれないけど当時は店に生徒や学校関係者が来る事もなかったから大丈夫だった。こうして僕の中3はNSPと出会ってグループを結成し少しずつオリジナルを作りはじめた時期になった。

 

僕のNSP日記~其の82

だいぶ腕を上げていた僕たちのグループ名は確か「Adam」だった。

意味は忘れた。NSPのLPも若柳ではだいぶ売れた。「Now」で歌っていると紙に書いてリクエストが来るようになった。1位「さようなら」2位「昨日からの逃げ道」3位「ちょうちょ」4位「あせ」を何回も何回も歌った。

 

僕のNSP日記~其の83

2月になると一関高専の受験があった。他の公立高校より少し早い入試だった。僕の成績だとギリギリ合格出来る予定だった。けど毎日夜中までレコードを聞いて楽器の練習に明け暮れていた僕にとって入試問題は全く分からなかった。その事を彼女のせいにした自分がとても恥ずかしい。

 

僕のNSP日記~其の84

合格発表なんて見に行かなくても結果は分かっていた。僕は一関の県立の高校の入試を受け合格した。いよいよ中学最後の謝恩会が体育館であり僕たち「Adam」は演奏する事になった。お得意のNSPはもちろんオリジナルを1曲入れた。この一曲が人生を大きく変えてしまう事になる。

 

僕のNSP日記~其の85

「ふるさと」は出稼ぎの兄が祖母の服を買うお金や妹の学費を仕送りする歌だった。1番と2番の間に唱歌の「ふるさと」を一節入れ込んだ歌だったが、担任も音楽の先生までもが聞いて涙を流した。NSPの曲の間に箸休め的に披露した曲が反響を呼び学校のちょいとしたスターになった。

 

僕のNSP日記~其の86

ギターを弾いてバンドやる奴は不良という時代に上畑君も八坂君も一関一高という進学校に合格していてオリジナル曲は親孝行の仕送りの歌では文句の言いようがない。しまいには学期末の試験中に担任が「恭司、学校行かないでNHKみたくプロになったらどうだ」とまで言って来た。

 

僕のNSP日記~其の87

NSPをNHKと間違えた担任は以前同伴喫茶でワイワイしただけに尚更教員受けしたオリジナルを作った僕が自慢だったんだろう。素直に嬉しかった。一関にいる父にその事を話したら「教育者が学校に行かなくてもいいとはどういう事だ!」と言ってはいたが今思えば先見の目があったと思う。

 

僕のNSP日記~其の88

その出来事から僕のNSPになりたいは「NSPみたくプロになって人を感動させる曲を作り歌いたい」と夢が具体的な目標に変わった瞬間だった。母の実家の隣りの兄さんにも「Now」の岡君にもその曲を聴かせた。異口同音「恭司、コンサートをやれ」「えっどこで?」「公民館だよ」

 

僕のNSP日記~其の89

もはや反対する大人の勢力はいなかった。公民館を借りるのも信用ある大人が何人も保証人になってくれた。但し有料のコンサートの開催は無理だった。さすがに卒業は確定していても中学生には変わり無かった。1974年4月4日若柳公民館での我々「Adam」の解散コンサートは決定した。

 

僕のNSP日記~其の90

ひと月しか無いのに無謀な計画だったけどワクワクが止まらなかった。中学生のグループが町の公民館でコンサートをするのは前代未聞の出来事で町中の話題だった。久しぶりにキング時計店に顔を出したら「NSPの新曲だよ」と言って「ひとりだちのすすめ」と書いたレコードを出した。

 

僕のNSP日記~其の91

レコードの表紙の写真はレコーディングミキサー卓の前に座るNSPの3人だった。まさに「何て凄いプロみたい」だった。直ぐに買って金成町沢辺の従兄の部屋のステレオて聞いた。「あせ」の第二弾だとは直ぐ分かったけどブレイクした後のE7のチョーキングがめちゃくちゃカッコ良かった。

 

僕のNSP日記~其の92

写真の中の天野くんのカッコ良さはハンパなくまるで「ねぇ君も早くこっちにおいでよ」と言ってるように見えた。オリジナル曲はまだ5曲ぐらいしかなかった。先生達に反響が大きかった「ふるさと」は全くNSP要素が無く古臭いフォークソングだった。同級生のウケもイマイチだった。

 

僕のNSP日記~其の93

B面の「君と歩いてみたくて」を聞いて衝撃だった。1枚目のLPはライブアルバムだったからドラムが無い音に慣れていた。「新青春」のシングルバージョンもアルバムを聴く事で忘れていた。NSPの曲で初めてドラムが心地よく感じた。生ギターと相まって聞こえるシンバルが最高だった。

 

僕のNSP日記~其の94

ギターのフレーズも「いい」「昨日からの逃げ道」と同じ天野スケールだった。二人で歩くシチュエーションと「風さん」の登場はまさに「いい」の続編って感じで「ちょうちょ」のボーカルが乗った力作だと思った。当時少し前に流行った野口五郎の「青いリンゴ」を彷彿させた。

 

僕のNSP日記~其の95

レコード購入時「2週間後に2枚目のLPが出るよ」という情報も入りテンションは上がっていた。早速僕は新曲の完全コピーをした。聴いてコピーしながら作った天野滋を感じていくギターを弾くNSPマニアは多いと思った。所謂なりきってしまう。「学ぶ」が「まねぶ」が語源だと体感した。

 

僕のNSP日記~其の96

「君と歩いてみたくて」の歌は上畑君の担当だったがキーが高くて歌いづらそうだった。中村さんのボーカルは低い声から高い声まで出ないと歌えないNSP wannabe泣かせだった。4月4日の若柳公民館コンサートには新曲として「ひとりだちのすすめ」を追加して演奏する事にした。

 

僕のNSP日記~其の97

僕たちはボーカルアンプを「Now」から借りる事にした。

それと人を集めるからには曲が足りないので岡君と行った事のある登米の佐沼にあった「レノン」というライブハウスのマスターに前座で歌ってもらう事にした。手書きのポスターを作り町のあらゆる場所に貼ってもらった。

 

僕のNSP日記~其の98

NSPの2枚目のLPの発売前に中学の卒業式があった。彼女は仙台の高校に行く事になっていたので僕とはコンサートを見るのが最後という運命の日になっていた。学校帰りに焼きそば屋に一緒に行って自転車で話しながら帰えるというデート。休みの日は電話で話す事が精一杯の初恋だった。

 

僕のNSP日記~其の99

彼女の家には電話はあったけど僕は母の実家にいる居候の身。高校入学までの約2週間は毎日のようにコンサートに向けてリハーサルを重ね帰る途中電電公社にある公衆電話で話す事が日課だった。たった10円のたった3分間のデートだった。3分で愛を伝える事の難しさを知り上達もした。

 

僕のNSP 日記~其の100

4月4日は若柳にも金成にもさようなら。「Adam」も解散。彼女とも最後になる。僕にとって人生最大の舞台の日になった。当日は隣りの兄さんが一曲だけドラムを叩かせてあげるかわりに車を出してくれた。下足を入れるビニール袋300人分とギターとベースを積んで公民館に向かった。

 

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